昭和五十七年八月四日 朝の御理解


 神訓 「縁談に相性を改め見合わすより 信の心を見合わせよ」

 昨日、日田の綾部さんのお導きでお参りをして来た方が、娘さんに御養子を迎えられる事になった。向こうも来て下さる、こちらももらおうと言う気になったんだけれども、ある人が相性の良いの、悪いのと言う事になって、合楽の金光様にお願いに行ってからと言う事で、昨日お導きを受けて参って見えたわけでございます。
 で、私は、金光様の御信心は、相性なんかは言いません、ね。もう、本人達が行こう、もらおうと言う事になったら、いいですよと。言うだけでは、なかなか合点がいかんごたる模様ですね。やっぱ、相性を、まあ、良い相性ですよと、言やぁ、安心がいったでしょうけども。もう、金光様では、そんな事は言いません。いわゆる心と心。とにかく「心ひとつで全てを創る」と言われるのだから、ま、それから夫婦の者の幸福は、夫婦で築いて行くものだからと、言うて、ま、教祖様の御教えを話しましてもね、なかなか、こ、合点がいかなかったるごたるですね。それで私は、私の両親の話をさせてもらいました。私の両親は、母が十九、父が二十五と言えば、女の大厄、二十五と言やぁ、もう、それこそ道連れにでもならなと、言われる位な悪い年である。相性の方から言うたら。それが結婚をして、父は九十三才までも、母は八十七才までも、半年違いで亡くなったんですけども、もう、それこそ生涯を、ま、本当に合楽のお爺っちゃま、お婆っちゃま達が、本当の極楽やろうと思われるようなおかげの中に、ま、おかげを頂いた話をしましたらね、何か、えらい安心しなさったような表情をなさって、昨日は梅の実会でもありましたから、梅の実会で皆さんの若い娘さん達の、ま、話を聞いて帰られました。ね。皆さん、どうでしょうか。息子の嫁子をもらう、娘をやる。相性は、どうじゃろうか、と。一番は、まず、それを考えるような事では、金光様の御信心を頂いとらん証拠です。
 日柄がどうのこうのと言うような事は、本当に金光様の御信心を頂いたら、そういう事はないのですけれども、それを言ってもね、やはり一つの、ま、やっぱり結婚するなら相性を、まず見らにゃ。家を建てるなら、まず家相を見てもらわなと言うように、ま、それこそ農家の方達が、種を蒔くにしましても、やはり日を選んだり、女の方が裁縫をなさる、たちものするでも、日柄を言うと言ったような、窮屈な、ま、行き方をしておる人達が、ま、いくらもありますが。それこそ、ま、文化人と言われるような人達でも、やはり家を建てるとか、結婚とかと言うと、やっぱり黄道吉日でなかならいかんとか、ね。家相を見てもろて建てたと言う事にならなければ、本当に迷信に作用されておると言う事なんですけれども。ま、教祖はそこを、はっきり教えられとる。教えておられるけれども、なかなかそれが、一遍に頂けないけれども。おかげを受けた人が、おかげを受けとる事実を話しますとなら、昨日の日田のその方じゃないけれどもね。私の両親の話をさせて頂いたら、こ、安心が出来られた様でありますように。問題は体験を頂く、教えによって、ね。お願いしておかげ頂いたじゃなくて、お願いをして教えを受ける。その教えを行じて、かくおかげを受けたと言う話なら、人が助かるです。ただ、お願いしなさい、おかげを頂きますよだけじゃいかんごたる。昨日、先だって大阪からある教会の、ま、大変偉い先生ですが、ここへ見えられました。も、大変感心して帰られて、昨日、お礼の手紙が参りました。で、あちらの方で、大阪の、まあ、たくさんな教会がありますが。で、お話しをなさった。それで合楽でわかった、頂いた話をさせて頂いた時に、それが、まあ、教団では、一番権威のある御本ですが、月に四回か、でます。「読信」読む信と書いてある御本がある。教会に一冊下がります。これは、もう、なかなか言うならば、実のあると言うか。本当に権威をもった御本ですが。それに載ると言う事であった。その先生が話された事が、それに載ると言う事である。だから、あなたがお話をする話が、合楽の話であるとするならば、合楽とか、大坪先生とかと言わずにね、あなたの信心として話しなさらんといけんですよと、ま、ある先生から、こんこんと言われて、丸っきり私の信心のようにしてお話しを致しております。この次の読信に、必ず掲載される事でございましょうけれども、ま、先生の話を言うならば、借りてお話しをしたような事ですから、どうぞ、その点を悪しからずと言うような手紙が参りました。私が言うた事と同じ事を、その先生が言われて、その先生がおかげを受けておられれば、それはおかげになるでしょ。ところが自分自身が聞いてきたばかりで、おかげを受けていないならば、それは、結局、ま、素晴らしいと言う人もあろう。間違っとると言う人もあるかも知れませんけれども。例えば、間違っておると思うてもです。事実、おかげの実証があるならば、おかげを受けるから、不思議です。そん時にも、私が大阪へ参ってお話しをした時に、私の話を聞いて下さってわかったら、信心が進みます。私の話を聞いて下さって感じて下さったら、おかげになると言うような、私もそんな事を言おうとも思わなかったけども。結局、お話しにそんなお話しが出てくるんです。それをその、大阪の先生、聞いておられた、ね。もう、本当にそういうお話しがです、ね、出来ると言う事は、私自身がおかげを受けておるから、言えるんです、ね。私の話を浮き彫りにして、いかにもそれが自分の話のように、信心のように言うて、成程、合楽と同じような事が。このごろ合楽の話が、いたるところで出ます。合楽と言わずにその先生が、ね。
例えば、人間は、ね。も、生まれた時に、も、生神の性を頂いておるんだ。言うなら柿の種を割ってみなさい。中にはちゃんと、もう、すでに柿の芽がめぐんでいるでしょう、だからと言って、それが柿になるとか、柿の木になると言うのじゃない。それを土に移して、ね。御陽気やら、水分やらを頂いて、芽をきって、初めて柿の木にもなりゃ、実も実るのですと、言うような話が、これは合楽の話しなんです。私が、神様からお知らせを頂いてお話しした話しなんだ。で、そういう話が、広がっていくうちに、それが柿の種ち言うと、合楽の真似したるごたるけん、同じ事を何か他の、何じゃったかな。大根の種か、大根の種と替えて話してあると言うように、ね。ね。けども、同じだけども、それでおかげ受けんです。これが合楽の先生は、かく言われると言うて、話せば必ずおかげになるです。それがわかれば、私共がなら、甘木の初代のお話しはです。自分の話のようにして話さんでしょ。甘木の初代は、かく言っておられた。甘木の先生が、おかげ受けておられるから、甘木のお話しでも、合楽でおかげ受けるわけなんです、ね。今日は少し、ま、結婚をするのに、ね。縁談に相性を見合わすより、ね。心と心を見合わせよと、言う事は、ま、皆さんは、も、わかっておられると、してですね。金光様の御信心しとりゃ、相性もみらん、いわゆる家に建てるのに、家相とか、何とかと言うように、そういう迷信的な事から、おかげで脱皮した行き方が、言うならば、自由無碍な生き方が出来るんだと言う事を、今日は聞いて頂いたですけども。なら、教祖がこう教えておられるからと言うて、初めて参って来た人にそれを言うたぶんでは、ね。不思議に合点がいかんです。昨日の日田の人じゃないけれど、けれども、私自身、両親がおかげ受けておる事実をね。お話しをしたら、はぁ、そうですかと言う。お参りしてよかったと言うような、何か、こう、お参りしてよかったと言う、あの感じで、ま、帰られたんですけれどもね。おかげを受けておるから通ずるんです。私は今日は、そこんところを皆さんに、皆さんも、だから合楽のお話しを頂いて、合楽の御理解に基ずく行き方をさしてもろうて、かくおかげを受けたと、言う事にならなければ、言うなら合楽示現活動に参画させて頂いても、そういう実があがってこないです、ね。どんなに素晴らしい信心をわかっておっても、そういう一つの実験と実証があって初めて、それはあなたの信心の力にもなったと言う事になるのです。教祖様は、かく教えておられる。それを私が、一遍食べてみて、こんなに味がするんだ。こんな味わいだと言う事を、皆さんに聞いてもらうから私、合楽の話で人が助かるんだと思うです、ね。教祖様が教えておられる。また、私が神様から頂く事を私自身が頂いて味わって、また実証さしてもろうて、皆さんに聞いて頂いくんです。
 私は昨日、日田の方のお取り次ぎをさせて頂いて、成程、ただ、教えだけではいけないなあと、その教えによって私が助かって、初めてそれが、次の助かりといった、助かりの輪と言うかね、に、つながっていくんだなと言う事を感じました。ね。
 昨日、網宮美子先生が、昨日お知らせを頂いたと言うて、お届けに来た。どういう事かと言うと、秋山誠二君の所の子供が、誠輝君と言うんです。お父さんの誠二の誠、まことと言う字に輝く。これは、先生自身がお知らせを頂いてから、そしてその誠輝と、こ、書いてみたら、はぁ、誠とは自分の名前。輝とはかがやくと言う字ですから、美枝さんのいわゆる、戎浦さんのお父さんの輝夫、と言いなさいますから輝と言う字で、お爺ちゃんの名前名が一緒に頂けたと言うておりましたが、その誠輝君をだっこしてお取り次ぎを頂いておると言うお知らせであった、ね。網先生が頂いておるんです。そして、お届けをさして頂いたら親先生が御理解に「梅の香りを桜にもたせ しだれ柳に咲かせたい」と御理解下さったと言うのです、ね。そんな馬鹿げた事が、出来るかと。「梅の香りを桜にもたせ しだれ柳に咲かせたい」そんな結構けだらけな事が出来るはずがないと、普通で言うもすりゃ思いもするでしょうけれども、ならこれは、私自身がおかげを受けておる事ですから、ハハァ、信心一つでは、そういうおかげも受けられると言う事がわかるのです。私は、なかなか力と言う徳が、ま、辛抱する事が有り難うなって来た。人が辛抱出けんようなところでも、辛抱出来るようになってきた。それが段々、今度は有り難いものになってきた。私は辛抱の徳だと思う、ね。梅の花と言うのは、辛抱。信心辛抱の事。梅の花と言うのは、これは、ま、私の一つの持流といいますか、性格と言うね、大体が根っからの商売人ですから、何とはなしに華やかである。例えばこれは、大祭なんかはなおさらですけど。月次祭だって、私は、合楽のような華やかな大祭は、まあ、なかろうと思うですね、ね。例えば、楽人が二十人から揃いますからね。楽人だけでも、それに、御神前を埋めつくすような華やかなお供えでしょ。それこそ、お広前は、も、いっぱいに、の、御参拝でしょ、ね。誰でも、そういう華やかなおかげはいらんと言う、そういうおかげも頂きたいのです。やっぱり、ね。それから、ね。しだれ柳に咲かせたい、言うなら神様まかせ、ね。柳が風に逆らわないようにこれも、私の信心の持流と言うてもいいと思うです、ね。馬鹿ほどなところがありますね。馬鹿ほどな素直なと言うところがあります。だからね、例えば、そういう馬鹿げたおかげが頂ける筈がなか。梅の花、香りを桜にもたせ 桜の花を柳に咲かせたい、て言うなんてん、そげなこと出来る筈がない。けれども私自身がおかげを受けておると言う事実がね、ありますから、私は網先生が、誠輝君をだっこして来たと言うのは、ね。誠の輝きと言う事だと思うんです。言うならば合楽の御比礼、ね。真の輝き、比礼、御比礼に欲すると言うだけではなくて、それを自分の家にも、ね。頂ける事の為に、ね。ここは、いっちょ、潔い桜の花の信心でいきなさい、ここは素直に馬鹿ほどに、柳の信心でいきなさい。サァ、ここが辛抱のしどころばい、と辛抱力を作っていくならば、今とてもそんな事は出来ないと思われるようなおかげが、私は頂けてくる。現れてくる。これは私自身が、おかげを受けとるから、ね。網先生に、私が御理解しておる。その御理解が網先生にも伝わっていくと言うふうに思うんです、ね。
 まずは、各自(めいめい)が各自がおかげを受けなきゃなりません。おかげを頂き現わして、そして言うならば、ある意味合いでは迷信脱皮、ある場合にはこういう行き方。言うならば「一切神愛」などと言うても、合点がいかんでしょうけれども。私はこういう難儀な問題でもいやな問題でもそれを、神愛として頂いたら、かくおかげが現れて来た、と言うようにです、ね。私は教えの徹底というか、行じると言う。そこんところのおかげを頂いていかなきゃならん。ま、今日のお話しは、えらい、合楽的に発展したお話しでしたね。例えば、相性を見合わすよりと言うところが、それだけでは合点せんから、初めて参って来た人は、ね。けども、私の体験を通して話させて頂いたら合点がいくんです。合楽でおかげを頂くと言うのは、言うなら私の実験実証を踏んまえてのお話しだから、おかげを受けると思うですね。           どうぞ